梅花湖のトライアスロンリレーが終わって、草の上に倒れ込んだ。全身が痛くてたまらないのに、頭だけが妙に冴えていた。
レースの興奮を反芻していたわけではない。頭の中をぐるぐる回っていたのは、一つの問いだった。なぜこのリレーは、これまで参加したどの企業研修よりも、「チーム」への理解を深めてくれたのか。
答えはルールの中にある。トライアスロンリレーのルールはシンプルで、そして残酷だ。三人が水泳・自転車・ランニングをそれぞれ担当し、誰か一人でも棄権すれば、チーム全体の記録が消える。
減点ではない。割引でもない。ゼロになる。
泳ぎが飛び魚のようで、自転車がツール・ド・フランス選手並みでも関係ない。ランニング担当の仲間が最後の5キロで足を攣って棄権したら——それまでの全ての努力は、なかったことになる。
運命共同体を身体で学ぶ
このルールがなぜ教育的に意味を持つのか。それは、教室では絶対に得られない「体感」を生み出すからだ。自分の勝敗は、自分だけでは決まらない。
レース中、不思議な心理状態が続く。水の中で泳ぎながら、自分のペースだけでなく仲間のことを考える。次の自転車、あいつはもつだろうか。自転車に乗りながら、頭に二つのことが同時に浮かぶ。遅すぎてランの仲間に迷惑をかけないか、速すぎて自分が消耗してチームを棄権に追い込まないか。
「心の中に他者を置く」この感覚は、授業で教えてどうにかなるものではない。本物の、結果を伴う状況の中でしか育たない。
それに、レース会場には、どんなチームビルディング研修でも再現できない空気がある。共通の目標を持つ人間が集まれば、自然と互いを鼓舞する力が生まれる。トランジションゾーンで仲間が走り込んできてリレーバンドを渡してくる瞬間、わかる。あいつは全部出し切った。次は自分の番だ。
その瞬間、失望させたくないと思う。誰かが見ているからでも、賞金があるからでもない。ただ、あいつが命がけで走ってきたのに、自分が手を抜く資格はない——そう感じるから。
それが群育だ。教科書の定義ではなく、生きた体感として。
孤独な走者の時代は終わった
職場で「孤鳥」を何人も見てきた。
彼らには共通した特徴がある。学歴は立派で、個人の能力は高く、専門知識は文句のつけようがない。だがチームに入れた途端、問題が出る。他人のペースに合わせることができない。会議を時間の無駄だと思っている。自分の案がチームに修正されることを受け入れられない。同僚より優秀だから、他人の意見を聞く必要はないと思っている。
正直に言えば、若い頃の自分にも同じ心がけがあった。台清交の卒業生として、学歴は能力の証明だと信じていたし、良い学歴を持つ者が当然判断を下すべきだと思っていた。
起業して、初めてその考えの甘さを知った。
起業して最初に学んだのは「どうやって製品を作るか」でも「どうやって資金調達するか」でもない。一人では何も成し遂げられないということだ。技術のわかる人間、市場のわかる人間、財務のわかる人間、法律のわかる人間が必要になる。彼らは部下ではなく、パートナーだ。「俺の方が優秀だ」では率いられない。「一緒にこれをやり遂げよう」という言葉でしか、人は集まらない。
学歴さえあれば周囲を見下せた時代は、本当に終わった。〈菁英の傲慢、青年の活路〉でも書いたが、功績主義は勝者に「全て自分の力だ」と錯覚させる。しかし現実の世界では、一人で何か意味のあることを成し遂げた人間など、いない。
過小評価されてきたスポーツ
群育がそれほど重要なのに、台湾の教育はなぜほとんど教えてこなかったのか。
「群育に最適な場」であるスポーツが、教育システムの中で著しく軽視されてきたからだ。
多くの学校で体育の授業はどう位置づけられているか。「子どもを走らせて汗をかかせる」「気分転換」「試験前は自習に使える」。体育は知育の添え物、あるいは邪魔者として扱われる。体育の時間が多すぎると、勉強時間が削られる、という論理で。
だが考えてみれば、スポーツの中には群育の養分がどれだけ詰まっているか。
チームスポーツは他者のペースに合わせることを求める。自分のボールだけを追いかけるのではなく、仲間の位置を見なければならない。リレーは仲間を信頼することを求める。相手がどれだけ速く走るかは制御できないが、全力で走ってくれると信じなければならない。試合には負けがある。負けを経験し、負けた後でチームメイトと一緒に向き合うことを学ぶ——これは極めて重要な能力だ。
チームを率いてきた中で気づいたことがある。部活でスポーツを経験した人は、チーム協働の能力が概して高い。スポーツで頭が良くなるからではない。グラウンドで「他者に合わせなければならない」という訓練を無数に積んできたからだ。その経験は身体に刻まれていて、考える前に動き出す。
本当の基礎訓練
「自分で仕事を作り出さなければならない」時代に、学歴の価値は急速に下がっている。代わりに求められる中核的な能力は何か。
問題を発見し、解決する能力。リソースを活用し、異なる専門を持つ人と協働する能力。自分の考えを明確に伝える能力。そして言葉にしにくいが、現場で最も力を発揮する何か——人との関わりの中で空気を読み、いつ前に出ていつ引くべきかを知る能力。
これらの能力には共通点がある。どれも「他者がいる」環境の中で繰り返し練習しなければ身につかない。
協働する能力は、一人では磨けない。水泳の教則動画を見るだけでは泳げないのと同じだ。水に飛び込み、水を飲んで、水の中で恐怖と折り合いをつけることを通じて、初めて泳げるようになる。
〈感情も関係の中で起きる〉で書いたように、EQにおける関係能力は、集団との相互作用の中で練習することで育つ。協働能力も同じだ。概念を理解するだけでは足りない。現実の状況の中で繰り返し練習することで、初めて能力になる。
トライアスロンのリレーは、まさにそういう状況だ。
ゴールで会おう
最後に、トライアスロン参加で身をもって学んだことをいくつか。
アドレナリンに支配されるな。スタート直後は皆テンションが高く、飛び出したくなる。だがトライアスロンは耐久レースで、短距離走ではない。格好よく飛び出して後半に崩れるより、自分のペースで完走する方がずっと大切だ。
水分補給は、思っている以上に重要だ。十分な水を持って行くこと。補給ポイントを当てにしてはいけない。
水泳の後に自転車、その後にランニングと来れば、最後の種目で筋肉が悲鳴を上げる。筋肉弛緩スプレーは救世主だ。
そして——遠くにカメラマンが見えたら、今にも倒れそうな顔をとりあえず引っ込めること。後でまだ見られる写真があることに、必ず感謝することになる。
一緒に運動することが持つ教育的な意味は、代謝を促進することをはるかに超えている。スポーツは群育の最もリアルな戦場だ。そして群育こそ、この時代において最も稀少で、最も過小評価されている教育である。
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